ペンテコステ――その霊の全き祝福(4) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 使徒2:1 さて、ペンテコステの日が満ちた時……。(4節)すると、彼らはみな聖 霊で満たされ……。 ピリピ1:19 というのは、あなたがたの祈り求めることと、イエス・キリストの 霊の満ちあふれる供給を通して、このことがわたしにとって救いとなることを知 っているからです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全4編のうちの第4編) 本質上の霊を享受することは、初穂の束としての享受を持つことです。しかし、 エコノミー上の霊を享受することは、開かれた公の方法で、収穫としてのキリス トの享受を持つことです。わたしたちは、収穫としてのキリストの享受を軽んじ るべきではありません。ある人たちはマリヤのようでありたいかもしれません。 彼女は主の復活の朝に主と出会いました。あるいは、ある人たちは少なくとも弟 子たちのようでありたいかもしれません。彼らは夕方に主と出会いました。わた したちはみな、収穫の祭りとしてのキリストの全き享受を必要とします。 キリストの享受が全きものとなったのは、召会のかしらとしてのキリストが、彼 のからだの上にご自身をエコノミー上の霊として注ぎ出された時でした。ペンテ コステの日におけるこのような注ぎ出しを通して、キリストの享受は全きものと なりました。 ピリピ人への手紙第1章19節でパウロは、イエス・キリストの霊の満ちあふれる 供給について語ります。収穫の初穂としてわたしたちが受ける供給は、新鮮なも のですが、満ちあふれるものではありません。わたしたちは収穫を持つ時はじめ て、満ちあふれる供給を持つのです。これが意味することは、その霊がキリスト のからだの上にエコノミー的に注がれてはじめて、主の民はキリストの全き享受 を持ったということです。エコノミー上の霊がペンテコステの日にキリストのか らだの上に注がれた時、キリストの享受は満ちあふれるものとなったのです。今 や、その供給はイエス・キリストの霊の満ちあふれる供給であり、このような霊 が福音の祝福なのです。 ――――――――――――――――祈り――――――――――――――――― 父なる神よ、その霊としてのキリストの享受において、わたしがぐずぐずするこ とのないようにしてください。キリストの全き享受はからだの中にあることを、 わたしにはっきりと見せてください。主よ、わたしがその霊のこのような満ちあ ふれる供給を経験するまで、わたしの中で働いてください。アーメン。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・使徒たちの行動(一)」(1988年版)メッ セージ6から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。