異言――理解することのできる言語である ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 使徒2:4 すると、彼らはみな聖霊で満たされ、その霊が彼らに語り出させるま まに、さまざまな言語で語り始めた。(6節)この物音が起こると、群衆は集まって 来た。そして困惑してしまった。なぜなら、めいめいが、自分たちの方言で弟子 たちが語るのを聞いたからである。(7節)彼らは驚きあきれて言った、「見よ、話 しているのは、みなガリラヤ人ではないか? (8節)それなのに、わたしたちの生 まれた故郷の方言で彼らが語るのを聞くとは、いったいどうしたことか? (9節) わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、 ユダヤとカパドキヤ、ポントとアジア、(10節)フルギヤとパンフリヤ、エジプト とクレネに近いリビヤ地方などに住んでいる者、旅をしているローマ人、ユダヤ 人と改宗者、(11節)クレテ人とアラビヤ人もいるのに、わたしたちの言語で、彼 らが神の大いなるみわざを語っているのを聞くとは?」。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 第2章4節で語られた「言語」は方言でした(6、8節)。弟子たちはガリラヤ人たち でしたが(7節)、世界のさまざまな所から来た礼拝者たちのさまざまな外国の方言 を語りました。これは、異言が舌によって発せられる単なる声や音のようなもの ではなく、理解できる一つの言語でなければならないことの強い証拠です。 今日のいわゆる異言の多くは方言ではなく、何も意味のない音です。しかしなが ら、ペンテコステの日に語られた異言は、聖霊による奇跡でした。わたしは、自 分自身いわゆる異言を語ることを実行していましたし、他の人たちにもそうする よう導いていましたが、この実行をやめました。わたしは、いわゆる異言で語る ことの多くが、奇跡的な方法で方言を語ることではなく、何か人間的に造り出さ れたものであることを、認識するに至りました。わたしたちがここで強調してい る点は、ペンテコステの日に語られた異言は、本物の方言であり、舌によって発 せられた単なる音声ではないということです。 ――――――――――――――――祈り――――――――――――――――― 主イエスよ、わたしがあなたについて大胆に証しすることができるように、その 霊でわたしを満たしてください。わたしは、他の言語であなたについて語る奇跡 的な賜物は持っていませんが、わたしが自分の方言であなたについて語る事柄が、 明白で、意味深いものとなりますように。アーメン。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・使徒たちの行動(一)」(1988年版)メッ セージ8から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。