神の益のために祈る(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― マタイ6:9 そこであなたがたは、このように祈りなさい。天におられるわたし たちの父よ、あなたの御名が聖とされますように。(10節)あなたのみこころが天 で行なわれているように、地でも行なわれますように。(13節)それは、王国と力 と栄光とが、永遠にあなたのものであるからです。アーメン。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第2編) ある兄弟姉妹たちは必要のために祈る時、たいてい彼らはそれほど勇敢でも強烈 でもないことを、わたしは知っています。それどころか、彼らはひざまずくやい なや、涙を流して祈ります、「おお、神よ、わたしをあわれんでください。わた しには食べる物がありません。着る物がありません。住む所がありません。あな たに請い求めます。わたしをあわれんでください」。この種の祈りはあわれです。 なぜなら、それは全くあなた自身のためであるからです。こういうわけで、わた したちが物質的な物を神に求める時、神のためなのか、それともわたしたち自身 のためなのかという、途方もなくかけ離れた動機があり得るのです。 もし今日あなたの子供が病気になり、あなたが彼のために祈るとしたらどうでし ょうか? 祈りの中であなたは神に向かって、「おお、神よ、わたしの子供が病 気です。どうかいやしてください。しかしながら、わたしの祈りはわたし自身の ためではありません。実はあなたのためです」と言うことができるでしょうか?  それとも、あなたは子供がとてもかわいいので、もし死んだらどうしようかと 思って祈り、そこで涙を流し、熱心に、嘆き悲しんで、いやしてくださいと神に 請い願うのでしょうか? もしそうだとしたら、あなたの祈りは熱烈であるとは いえ、それは神の中にはなく、全くあなた自身の中にあるものであると、わたし はあえて言うことができます。あなたの熱心な懇願は、神を通過していませんし、 神にあなたを通過させてもいません。なおまた、それは神とあなた、あなたと神 とが一緒に祈っているのではありません。その反対に、それはあなた自身だけが 神の御前に祈っているのです。しかし、学課を学び、導きを受けてきた人たちが います。彼らは子供のいやしを求めて祈る時、神の御前で次のように言うことが できます、「おお、神よ、これはわたしのためではなく、あなたのためです。こ れはわたしのことではなく、あなたのことです。この一人の子供が病気である時 だけでなく、わたしのすべての子供が病気になって、みな死ぬとしても、それは あなたのことであって、わたしのことではありません」。 兄弟たちよ、もしわたしたちがそのような学課を学ぼうとするなら、わたしたち はもはや神に懇願したり、彼のあわれみを請うたりする必要はありません。そう ではなく、わたしたちは勇敢に、力強く祈ることができるでしょう。というのは、 わたしたちは自分自身のためではなく、ただ神のために祈ろうとしているからで す。わたしはダニエルが言った次の言葉が非常に好きです、「 主よ。聞いてく ださい。主よ。お赦しください。主よ。心に留めて行なってください。私の神よ。 あなたご自身のために遅らせないでください」(ダニエル9:19)。疑いもなく、ダ ニエルは神を通過し、また神に自分を通過させた人でした。彼はまた神と共に祈 り、また神が自分と共に祈るに任せた人でもありました。ですから彼は、「主よ、 あなたご自身のために……聞いてください」と祈ることができました。これはと ても基本的な原則です。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「祈りの学課(前篇)」(1984年版)第2章から引用されてい ます。いずれも日本福音書房から出版されています。