福音の弁明と立証 ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ピリピ1:7 わたしがあなたがたすべてについて、このように考えるのは当然で す。なぜなら、あなたがたはわたしを心にとめていて、わたしが監禁されている 時も、福音を弁明し立証している時も、あなたがたはみな、わたしの恵みに共に あずかる者であるからです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 福音の弁明は、否定面では、そらせたり曲解したりする異端と関係があります。 それはちょうど、ガラテヤ人への手紙で取り扱われたユダヤ主義や、コロサイ人 への手紙で取り扱われたグノーシス主義のようなものです。ユダヤ主義は福音を そらせていました。ところが、ギリシャ哲学はそれを曲解していました。パウロ は、そらせ、曲解するすべての異端に対抗して、福音を弁明しました。アンテオ ケでのペテロに対するパウロの経験を考えてごらんなさい。ペテロは使徒行伝第 10章で、異邦人に関して幻を受けていたにもかかわらず、アンテオケでは異邦人 信者たちと食事を共にすることから身を退きました。この問題では、ペテロは福 音の真理のために立たなかったのです。それどころか、彼はこの真理をねじ曲げ ました。こういうわけで、パウロは面と向かってペテロに抗議したのです。そら せ曲解することに対抗して福音を弁明することでは、パウロは独特でした。新約 の記録によれば、福音をそらせ曲解するどんなものに対しても、彼は最も強硬に 立った者でした。これが、彼が多くの苦難を受けた理由でした。しかしながら、 彼が享受した恵みは、これらの苦難をはるかに超えていました。 福音の立証は、積極面では、パウロの各書簡で啓示されているように、キリスト と教会とに関する神の奥義のすべての啓示と関係があります。パウロの著作の中 で、二つの偉大な奥義、すなわち神の奥義としてのキリストとキリストの奥義と しての教会が啓示されています。他のどの使徒も、パウロが行なったほど十分に これらの奥義を啓示しませんでした。確かに彼の教えと宣べ伝えは、福音の立証 と神のエコノミーの立証でした。 パウロは福音の弁明と立証のために絶対的でしたが、その彼とは対照的に、今日 の多くの福音伝道者はこの点では軟弱です。彼らには背骨がないかのようです。 これらの伝道者たちは、神のエコノミーの主要点を取り扱うことをせずに、他の 人たちを喜ばせる砂糖まぶしのメッセージをするだけです。一方においてわたし たちは、福音をそらせ曲解する教えに対抗して福音を弁明しなければなりません。 他方においてわたしたちは、神の福音のゴールを指摘することによってそれを立 証しなければなりません。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ピリピ人への手紙(一)」(1981年版)メ ッセージ3から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。