わたしたちの経験の中でキリストを高く上げる(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ピリピ2:9 それゆえに、神もまた、彼を高く引き上げ、そして、あらゆる名に まさる名を彼に与えられました。(10節)それは、天にあるもの、地上にあるもの、 地下にあるものが、イエスの御名の中で、すべてひざをかがめるためであり、 (11節)そしてあらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と公に言い表し、 父なる神の栄光となるためです。(12節)そういうわけで、わたしの愛する人たち よ、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいるときだけでな く、わたしがいない今はなおさら、恐れとおののきをもって、あなたがた自身の 救いを成し遂げなさい。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第2編) パウロの観念は、キリストが宇宙で客観的に引き上げられるだけでなく、主観的 にも経験的にもわたしたちの日常生活で引き上げられることであったという証拠 は、12節に見いだされます。5節から8節で、十字架につけられた生活について語 り、9節から11節で引き上げられた命について語った後、パウロは12節で言いま す、「そういうわけで……」。「そういうわけで」という言葉は、パウロが12節 で語っていることが、前の節でキリストを十字架につけられた生活の模範とした ことの結果であることを示します。これらの言葉は、キリストの十字架につけら れた生活がわたしたちの経験となるべきこと、またキリストの引き上げられた命 がわたしたちの経験となるべきであることを示しています。わたしたちは、一方 でキリストの引き上げられた命について語り、もう一方でキリストの引き上げる 命について語ります。わたしたちが用いる表現はどうであっても、第2章9節から 11節には引き上げられた命があります。そのような命はまた、わたしたちによっ て成し遂げられる救いの一部であるべきです。12節の救いの主要な要素は、十字 架につけられた生活としてのキリストと、引き上げられたキリストです。これは、 わたしたちの中で活動される神によって、わたしたちが成し遂げる救いであるべ きです。 確かに、キリストが引き上げられたことは、わたしたちの救いの最高の水準です。 わたしたちはただ救われた者だけであるべきではなく、キリストの復活の力を通 して引き上げられている者でもあるべきです。キリストを引き上げることを語っ ているパウロの目的は、客観的に教理を教えることではありませんでした。本書 で扱われた他のすべての事柄のように、この要点は、クリスチャンの経験に関係 があります。わたしたちはキリストのへりくだりを経験する必要があります。こ れは、ご自身をむなしくし、ご自身を低くされた方としての彼を経験する必要が あることを意味します。今やキリストが神によって宇宙の最高の所に引き上げら れたので、わたしたちも彼の引き上げられたことを経験する必要があります。あ あ、わたしたちは主の救いの標準よりはるかに低いという事実に対して、主がわ たしたちの目を開いてくださいますように! わたしたちによって成し遂げられ る救いの標準は、キリストを高く上げたことを含むほどに高くなければなりませ ん。キリストの引き上げられることは、救いにおけるわたしたちの究極的な経験 であるべきです。これは、キリストがわたしたちの十字架につけられた生活であ るだけでなく、復活の中で引き上げられた命でもあることを要求します。彼を宇 宙において引き上げた力そのものが、わたしたちの中で彼が引き上げられるよう にする力です。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・ピリピ人への手紙(一)」(2002年 版)第11編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。