キリストにある信仰を通しての義 ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ピリピ3:9 そしてキリストの中に見いだされるためです。それは、律法からの わたし自身の義を持つのではなく、キリストにある信仰を通しての義、すなわち 信仰に基づく神からの義を持って……。 ガラテヤ2:16 それでも、人が義とされるのは、律法の行ないによるのではなく、 イエス・キリストにある信仰を通してであることを知って、わたしたちもキリス ト・イエスを信じたのです。それは、律法の行ないによってではなく、キリスト にある信仰によって義とされるためです。なぜなら律法の行ないによっては、い かなる肉も義とされないからです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 「わたし自身の義を持つのではなく……神からの義を持って」とは、パウロがキ リストの中に見いだされることを願った状態でした。彼は自分自身の義の中にで はなく、神の義の中に生き、律法を守ることによってではなく、キリストを生き ることによって神を表現する卓越した状態の中に見いだされることを願いました。 律法からの義は、律法を守るという人自身の努力から来る義です。以前、パウロ は律法による義の中に生きていました。人は、律法からの義によって覆われてい た彼を、常に見いだすことができました。しかし今や、パウロの願いは、キリス トの中に生き、キリストを自分の義とする人として観察されることでした。 パウロがその中に見いだされることを願った義とは、「キリストにある信仰を通 しての義、すなわち信仰に基づく神からの義」でした。「キリストにある信仰」 という表現は、わたしたちがキリストを信じることを暗示しています。そのよう な信仰は、わたしたちがキリストを知り、評価することから来ます。それは、わ たしたちがキリストを評価することを通して、彼ご自身がわたしたちの中へと注 入されて、わたしたちの信仰、彼にある信仰となります。ですから、わたしたち をキリストとの有機的結合へともたらすのは、キリストの信仰です。 信仰に基づく神からの義とは、わたしたちから生かし出された神ご自身である義 であり、キリストにあるわたしたちの信仰を通してわたしたちの義となります。 そのような義は、わたしたちの中に生きておられる神の表現です。それが信仰に 基づいているのは、それが信仰の基礎、あるいは条件の上にあるからです。信仰 は基礎であり、条件です。その上にたって、わたしたちは神からの義、最高の義、 すなわちキリスト(1コリント1:30)を受け入れ、所有します。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・ピリピ人への手紙(一)」(2002年 版)メッセージ第20編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版さ れています。