キリストの中に見いだされることを切望する ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ピリピ3:8 しかしさらに、わたしはまた、わたしの主キリスト・イエスを知る 知識の卓越性のゆえに、すべての事を損失であると勘定します。その方のゆえに、 わたしはすべての事で損失を被りましたが、それらをちりあくたと勘定します。 それは、わたしがキリストを得るためであり、(9節)そしてキリストの中に見い だされるためです。それは、律法からのわたし自身の義を持つのではなく、キリ ストにある信仰を通しての義、すなわち信仰に基づく神からの義を持って……。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 第3章8節と9節のパウロの言葉を単なる教理と考えてはならないという負担が、わ たしにあります。わたしたちは今、自分がどこにいるのかを主の御前で真剣に考 える必要があります。わたしたちはキリストの中にいるでしょうか? 御使いた ちや悪鬼どもがわたしたちを観察する時、わたしたちをキリストの中に見いだす でしょうか? 人はわたしたちに会う時、わたしたちをどこに見いだすでしょう か? キリストの中でしょうか、それともキリストご自身ではない良い事の中で しょうか? キリストの中に見いだされることについてのパウロの言葉には、大 切な意義があります。パウロの内側深くには、キリストの中に見いだされたいと いう切望がありました。 どうかわたしたちがみな、キリストの中に見いだされることを切望しますように。 わたしたちは次のように祈る必要があります、「主よ、わたしの願いはあなたの 中に見いだされることです。毎日わたしが行なうすべてのことで、あなたの中に 見いだされたいです」。しかしながら、わたしたちの多くがこのように祈ったか どうかは疑問です。パウロは、すべての事をちりあくたと勘定し、それはキリス トを得るためであり、そして彼の中に見いだされるためである、と言うことがで きました。これはとても重要な記述です。わたしたちが妻や夫によって、子供た ちや親族によって、隣人、同僚、級友によって、キリストの中に見いだされるよ うにと祈りましょう。 真にキリストの中に見いだされようとするなら、他のすべての事はわたしたちを 捕らえておくことができないでしょう。わたしたちはもはや、宗教、哲学、文化 の影響の下にいないでしょう。キリストの中にのみ見いだされるとは、何とすば らしいことでしょう! わたしたちが彼の中に見いだされる時、宗教、哲学、文 化は無にされます。キリストの中に見いだされるとは、彼がわたしたちの唯一の 表現であることを意味します。パウロはキリストの中に見いだされることができ たので、キリストが彼の表現でした。あらゆる面で、あらゆる角度から、キリス トだけが彼の上に見られることができました。パウロの切望は、キリストが彼の 唯一の表現となることでした。わたしたちの熱烈な願いは、ただキリストの中に 見いだされることであるべきです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・ピリピ人への手紙(一)」(2002年 版)メッセージ第20編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版さ れています。