キリストを表現する生活(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ローマ9:22 そして、もし神が彼の激怒を現し、彼の力を知らせようと願いつつ も、滅亡にふさわしい激怒の器を、大いなる辛抱強さをもって耐え忍ばれたとし たら、(23節)しかも、栄光へとあらかじめ用意しておられたあわれみの器に、彼 の栄光の豊富を知らせようとされたとすれば、どうなのですか? ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第1編) ここでわたしは、すべての人の美徳は神によって創造されたことを指摘したいの です。創世記第1章26節によれば、わたしたちは神のかたちに造られました。わ たしたち人の美徳は、神聖な美徳を入れるために造られた器です。それは、手を 入れるために手の形に作られている手袋のようなものです。聖書は、神のかたち はキリストであることを啓示しています(コロサイ1:15、2コリント4:4)。こう いうわけで、人が神のかたちに造られたことは、人がキリストのかたちにしたが って造られたことを意味します。人はキリストにしたがって造られました。それ は、人がキリストを入れ、キリストを表現することができるためでした。手袋は 手の型にデザインされています。それは手を入れることができるためです。同じ ように、人はキリストの型を帯びるよう神によって設計されました。キリストが 人の中へと入られる時、その人はキリストを入れる器となります。 ローマ人への手紙第9章は、わたしたちが神の栄光を入れる器であることを示し ています。神の栄光は神の表現を表しており、この表現はキリストです。真実、 誉れ、純粋さ、愛らしさは、実際であるキリストを入れる器としての人のあらゆ る面です。 「わたしにとって生きることはキリストであり」(ピリピ1:21)というパウロの言 葉の基礎の上に立ってわたしたちは、第4章8節の美徳がキリストを生きる生活の 表現の各面であると正当に言うことができます。パウロ自身がキリストを生きた ので、確かに彼は聖徒たちに、キリストの代わりに他の何かを生きるようにとは 命じませんでした。こういうわけで、彼が第4章8節で挙げている美徳は、パウロ と他の聖徒たちが生きたキリストの実際の表現であるに違いありません。この実 際はキリストご自身です。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ピリピ人への手紙(三)」(1981年版)メ ッセージ28から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。