知識は啓示と異なる(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ルカ24:29 そこで、彼らはイエスを無理に引き止めて言った、「わたしたちと 一緒にお泊まりください。夕方になり、日もすでに傾いています」。そこでイエ スは、彼らと一緒に泊まるために、入って行かれた。(30節)それからイエスは彼 らと一緒に食卓に着いて、パンを取り、それを祝福してさいてから、彼らに渡さ れた。(31節)その時、彼らの目が開かれて、イエスであることがわかった。する と、イエスは彼らから見えなくなった。(32節)彼らは互いに言った、「彼が道で わたしたちに語りかけて、聖書を開いてくださっていた時、心が内側で燃えたで はないか?」 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第2編) 夕方になり、彼ら(イエスの二人の弟子たち)はエマオに近づいた時、自分たちと 一緒に泊まるよう主を無理に引き止めました。彼らが食卓に着くと、イエスはパ ンを取り、彼らに渡されました。その時、彼らの目は開かれて、イエスであるこ とがわかりました。これは、主を認識することには二種類あることを、はっきり と見せています。一種類の認識は、聖書から来るものであり、もう一種類の認識 は、主が人の目を開いた時に来るものです。ある人たちは、聖書に非常に詳しく、 聖書について他の人に話すことさえできます。しかしながら、彼らは主イエスを 知りません。ある人たちは、聖書の教えを知っているだけでなく、彼らの目は主 によって開かれており、主イエスをも知っているのです。これらは二つの非常に 異なるものです。キリスト教には聖書があるだけでなく、個人的な啓示もあるこ とを、わたしたちは知らなければなりません。確かに、聖書がなければ、この世 界にキリスト教は存在しないでしょう。しかし、啓示がなければ、わたしたちが キリストを個人的に持つことはないことを、わたしたちは覚えておかなければな りません。 神の子供たちの間にある一つの問題は、彼らの知識の多くが「伝達された」知識 であるということです。それは一人の人の口から、他の人の耳へと伝達されます。 一人の人が自分の思いをもって理解し、他の人の耳へと伝達します。すべてのも のは伝達され、そしてすべてのものはただ教理や教えになってしまいます。主を 知らずに聖書の知識を持つのは役に立たないことを、わたしたちは覚えておかな ければなりません。エマオへの途上の二人の弟子は、聖書をすでに知っていまし た。そして主が彼らと語り、途中で彼らに聖書を説き明かしておられた時、彼ら の心は燃えました。それにもかかわらず、彼らは依然としてそれが主であること がわかりませんでした。主についての唯一の真の認識は、内側の認識です。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第1編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。