教会は祝宴である ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ12:1 過越の六日前に、イエスはベタニヤに来られた。そこには、イエス が死人の中から復活させたラザロがいた。(2節)そこの人々は、イエスのために 晩餐を設けた。マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食卓に着いて いた者の一人であった。 マタイ22:2 天の王国は、自分の息子のために婚宴を用意した王のようなもので ある。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― ベタニヤとは、貧しい者の家、あるいは苦悩の家を意味します。外側では、教会 は貧しく、苦悩しているでしょう。地上の教会は物質的なものには富んでいない かもしれません。それは主の臨在の中にある主の享受をもって富んでいるべきで す。外側の人々は常に教会を見下げて、教会は貧しく、苦悩に満ちていると言う でしょう。彼らは、主がわたしたちにとって何であるかのすべてをわたしたちが 享受する時、わたしたちがいかに富んでいるかを認識する霊を持っていないので す。 あの小さな家には外側で引き付けるものは何もありませんでしたが、内側は祝宴、 安息、満足に満ちていました。主イエスが祝宴にあずかり、安息しておられただ けでなく、そこにいた他のすべての人がそうでした。教会生活においてもこのよ うであるべきです。外面では、あらゆるものが貧弱であるかもしれません。しか しながら、内側では、あらゆるものが尊く、甘く、親愛です。わたしたちは主と 共におり、主はわたしたちと共におられるという甘い感覚があります。主はわた したちと共に祝宴をしておられ、わたしたちは主と共に祝宴をしています。主も わたしたちも安息しています。あらゆる人が安息しており、あらゆる人が満足し ています。これが教会生活です。 主の臨在は教会生活にとって多くを意味します。教会生活は絶対に主の臨在にか かっている生活です。主の臨在がなければ、教会生活は空虚です。内側で、教会 生活は祝宴です。ここには、主と彼の民のために用意された祝宴が常にあります。 主ご自身がそれを享受されるだけでなく、主と共にあるすべての人も同じように それを享受します。教会は、主と彼の民が共に集って、互いに祝宴にあずかり、 互いに享受し合う場所です。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・ヨハネによる福音書(一)」(1996 年版)メッセージ第25編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。