知るだけではなく、照らされる ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 黙示3:17 なぜならあなたは、自分は富んでいる、富める者となった、何の乏し いこともないと言っているが、実は自分が悩んでいて、みじめで、貧しく、盲目 で、裸であることを知らないからである。(18節)わたしはあなたに勧める。あな たが富むために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。またあなたがまと って裸の恥を現さないために、白い衣を買いなさい。また見えるようになるため に、目に塗る目薬を買いなさい。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 豊かさというのは、有るか無いかを言うのではなく、幾ら有るか、何が有るか、 どれほど深いかを言います。豊かさとは、初歩の経験ではなく、単なる教理の理 解でもなく、口先で何と言うかでもありません。神が人の目を開かれる時にこそ、 その人は霊的な豊かさの領域へと入るのです。 ある兄弟は救われて一年目に、多くの時間を使って聖書を研究しました。彼は特 に、主が再臨なさるという一つの主題に時間を費やしました。彼は、主が再臨な さることに関する事柄を詳しく分析し、相当はっきりしたので、自分は少し自慢 できると思いました。ある日、彼は、主にあって深い姉妹に会い、主の再臨につ いて話し合いました。彼女は彼のように分析するのではなく、彼女が大切にして いるのは、わたしたちがどのようにして主の戻って来られるのを待つべきかとい うことでした。その日、彼は、自分は主の再臨について語っているけれども、こ こに主の戻って来られるのを待っている一人の人がいるという学課を学びました。 単に主の再臨を知って語る人は貧しい人であり、主の再臨を待っているこの姉妹 は豊かな人でした。 神の御前で真に何かを見ている人はみな、出しゃばったりしませんし、自分は持 っているとは考えません。例えば、ローマ人への手紙第6章の真理をはっきり見 るためには、一回、二回、十回、二十回と啓示されなければならないかもしれま せん。あなたが初めてローマ人への手紙第6章にある真理を見るとき、これにま さる経験はないと感じ、「わたしは見た」と言うかもしれません。しかし、あな たが二回目に見る時、あなたは「ああ、わたしは前にはこのことを見ていなかっ た」と言うでしょう。これはつまり、光に照らされる時、あなたの元来持ってい たものが取り壊されるということです。ある兄弟は、教会に関する真理を大変よ く知っていました。ある時、彼は幾人かの人と一緒に、教会に関する光を得まし た。彼は言いました、「不思議だ。わたしはもともと何が教会かを知らなかった のだ。主よ、感謝します。今日、わたしは見ました」。毎回、主の御前で真に何 かを見る時、今までは何も見ていなかったと感じます。これは今まで本当に何も 見ていなかったということではなく、以前にも見ていたのですが、さらに大きい 光を得た時、以前に見たものについては重んじることをせず、かえって自分には 何もなかったということを認識するからなのです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第10編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。