神の現れは完全な献身をもたらす(1) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 創世記12:7 主がアブラムに現れ、そして『あなたの子孫に、わたしはこの地を 与える』と仰せられた。アブラムは自分に現れてくださった主のために、そこに 祭壇を築いた。(8節)彼はそこからべテルの東の山に移って天幕を張った。…… そこに彼は主のために祭壇を築いて、主の名を呼んだ。(口語訳) ローマ14:8 わたしたちは生きるにしても、主に生きるのであり、死ぬにしても、 主に死ぬのです。こういうわけで、わたしたちは生きるにしても死ぬにしても、 主のものです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第1編) この節(12章7節)で、祭壇は神の現れに基づいていることを見ます。神の現れが なければ、祭壇はありません。だれでもまず神に出会うのでなければ、神に自分 をささげることはできません。だれでも神の現れがなければ、自分のすべてを神 にささげることはできません。献身は人の勧めや説得によるものではなく、それ は神の現れの結果です。神が人に現れないのに、だれも自発的に自分のすべてを 祭壇にささげることはできません。本来、人はだれも自分自身を神にささげるこ とができません。神に自分自身をささげたくても、人は真にささげるものがない ことを見いだすのです。ある人は言いました、「わたしの心を主にささげたいの ですが、わたしの心は同意しません」。人は神の側に渡っていくことができませ ん。しかし、もし人が神に出会うなら、命の中でごく自然に献身が起こるのです。 もし一度でも神を見たなら、また一度でも神に触れたなら、あなたはもはや自分 自身のものではありません。神は軽々しく触れることができる方ではありません!  いったん神に触れるなら、もはや人は自分自身のために生きることができませ ん。 わたしたちは認識する必要がありますが、神に自分自身をささげる力は神の現れ を通して生じるのです。それは神の啓示から来ます。献身について語る人が必ず しも自分をささげているわけではありません。献身を宣べ伝える者、あるいは献 身の教理を理解している者が、必ずしも献身している人ではないのです。神を見 た人だけが献身した人なのです。神はアブラハムに現れました。すると直ちにア ブラハムは神に祭壇を築きました。主イエスがダマスコの路上でパウロに出会わ れると、パウロは直ちに尋ねました、「主よ、わたしは何をすべきでしょうか?」 (使徒22:10)。わたしたちの霊的生活の転換点は、神のために何かをしようと決 心することから来るのではありません。それは、神のためにあれこれ行なう決心 をした結果から来るのではなく、わたしたちが神に出会う時に来るのです。わた したちが神に出会う時、わたしたちの生活の中に根本的な変化が起こります。わ たしたちは過去に行なった事を、もはや行なうことができません。わたしたちは 神ご自身に出会う時に、自分自身を否む力を持ちます。神に出会う時に、自己を 否まないわけにはいかなくなります。神の現れは、自分でやっていくことをでき なくさせます。もはや自分自身によって生きられないようにするのです。神の現 れは無尽蔵の力をもたらします。そのような現れはあなたの一生の行程を変えて しまいます。クリスチャンが神のために生きる力は、神のビジョンに基づいてい ます! 主に仕えることはわたしたちの決定ではありません。わたしたちを神に 仕えさせてくださるのは主です。祭壇を築くのはわたしたちの意志ではありませ ん。祭壇を築くのは、神が人に来られる時です。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第16編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。