十字架とは何か? ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 2コリント1:4 この方は、わたしたちのすべての患難の中で、わたしたちを慰 めてくださいます。それは、わたしたち自身が、神によって慰められているそ の慰めを通して、あらゆる患難の中にいる人たちを、慰めることができるため です。(5節)なぜなら、キリストの苦難がわたしたちにあふれているように、 わたしたちの受ける慰めもまた、キリストを通してあふれているからです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 十字架は感覚を他の者に向けることではありません。またそれは内側に感覚を 向けたり、感覚を押さえつけたりするものでもありません。十字架は喜んで神 のみこころを受け入れることです。それは、神に感謝して、次のように言うこ とです、「神がわたしのために選ばれた道は、全く良い道です。わたしは、神 が与えてくださった十字架を御手から受け取るので、喜ぶことができ、感謝を ささげることができます。問題は何もありません」。十字架には赦すことがあ ります。人の同情を求めることはありません。それは受身的ではありません。 十字架がわたしたちに与える唯一の感覚は、主への感謝の感覚です。十字架は 、神の御前で柔らかい心を持つという事です。神が願われることは何でも、そ のようになさせることです。それは、神が偉大であり、また愛でもあることを 知るという事です。 真に十字架を負うことは他の人の尊敬という結果になりますが、人の同情を求 めません。人の同情を求めたり、人の慰めを求めたりする時はいつでも、それ は苦味を混ぜたぶどう酒であって、十字架ではありません。 キリストが十字架にかけられた時、主は人の助けを必要としないという理由だ けで、苦味を混ぜたぶどう酒を断られました。なぜなら、父のみこころが主の 喜びであったからです。十字架とは、内側で喜び、内側で神を賛美できること です。ですから、十字架を負う者は他の人を慰めることができるのです(2コ リント1:14)。パウロのような人は他の人を慰めることのできる人です。なぜ なら、どのような困難も彼に触れることができないからです。パウロとシラス がピリピで患難の中にあったとき、神に賛美の詩歌を歌っていることができた ことを、わたしたちは見ます(使徒16:25)。この二人の人は苦味を混ぜたぶど う酒を必要としませんでした。彼らは本当に十字架の上に釘づけられていた人 でした。ステパノは石で打たれてまさに息を引き取ろうとした時、依然として 人々を赦すよう神に求めることができました(使徒7:59-60)。彼には苦味を混 ぜたぶどう酒は必要ありませんでした。彼は本当に十字架につけられた人でし た。十字架はどのような苦痛や難しい事がふりかかったとしても、あなたがそ れによって触れられないということです。その反対に、あなたは依然として神 を賛美することができます。もしあなたがいつも、ある事柄が重く、難しいと 考えているなら、そこには十字架はありません。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉 は、ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メ ッセージ第17編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されて います。