真理はわたしたちを自由にする(3) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ローマ6:6 わたしたちは次のことを知っています。わたしたちの古い人が彼と 共に十字架につけられたのは、罪の体が無効にされて、わたしたちがもはや、 奴隷として罪に仕えることがないためです。 へブル2:14 こういうわけで、子供たちが血と肉にあずかっているので、同様 に彼ご自身も同じものにあずかられたのです。それは、彼が死を通して、死の 権能を持つ者、すなわち悪魔を滅ぼすためであり……。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全3編のうちの第3編) 神の御言葉はわたしたちに示していますが、主イエスは十字架上で死なれた時 、わたしたちの罪を担い、わたしたちを再生し、わたしたちを救ってください ました。神の御言葉はさらにわたしたちに示していますが、主イエスは十字架 上で死なれた時、わたしたちを主イエスの中に置き、そしてわたしたちの古い 人は彼と共に十字架につけられました。主の死は、単独の死ではなく、団体の 死でした。彼が十字架で死なれた時、わたしたちも彼の中で死にました。彼が 成就されたことを通して、わたしたちは死にました。これが真理であり、これ が実際です。 しかしながら、わたしたちはこの真理を見る前は、縛られています。自分自身 を見つめる時、わたしたちは依然として自分の短気を見いだします。自分の感 覚に触れる時、わたしたちは依然として自分の弱さを見いだします。わたした ちの頭からつま先に至るまで、望ましくないものが依然としてあります。現在 の問題は、わたしたちの経験や感覚がより実際であるのか、それとも主の働き がより実際であるのかということです。多くの人は、自分が縛られていること 以上に実際であるものが何もないかのように、涙を流します。しかし、神の御 言葉はわたしたちに示していますが、ただ一つものが実際であるのです。それ は、神の御子が成就してくださった事です。わたしたちの古い人は主と共に十 字架につけられました。これは真理です。もしこの真理を見なければ、わたし たちは自分の短気の奴隷となり、自分の経験や感覚によって縛られてしまいま す。もしわたしたちが自分の感覚や経験によって生きるなら、わたしたちは何 度も何度も失敗するでしょう。しかし、わたしたちが主と共に十字架につけら れた事実を見るなら、わたしたちは自由にされるでしょう。 かつて一人の兄弟が数か月もの間、体と思いにおいてサタンの攻撃を受けてき ました。彼は自分の知っている限りの事を試み、祈り、それに抵抗しました。 彼は力を尽くして祈り、力を尽くして抵抗しました。彼は祈り、また抵抗して 、くたくたになりさえしました。しかしながら、三か月もの間ずっと彼は抵抗 し、祈ったのにもかかわらず、彼はやはりその攻撃の下にありました。ある晩 、彼は主に祈りました、「わたしはもう抵抗することができません。わたしの 抵抗する力はなくなってしまいました。わたしはもう祈ることができません。 わたしの祈る力はなくなってしまいました。主よ、問題の根はどこにあるのか 示してください」。神は彼の目を開き、彼に一つの言葉を与えてくださいまし た。その言葉とは、「サタンには、わたしたちがそのように抵抗する価値がある のでしょうか?」というものでした。彼はそれまで、サタンに抵抗することが 間違っているということを、考えたこともありませんでした。その日、彼は実 際を見ました。実際とは何でしょうか? 実際とは、主イエスが勝利を得られ たことです。わたしたちは彼に結合される時、わたしたちも勝利を得ます。主 イエスが勝利を得ようとしているのでわたしたちは彼を声援する、というので はありません。真理は、彼が勝利を得られたということです。サタンは打ち破 られようとしているので、わたしたちは主がサタンを打ち破ってくださるよう に祈る、というのではありません。主に感謝し、賛美します。サタンはすでに 打ち破られています。それはすでに成されています。これから成されるのでは ありません。いったんその兄弟がこの真理を見ると、攻撃はやみました。すべ ては静まり、すべての問題は終わりました。これが、人を自由にする実際です 。これが、わたしたちを自由にする真理です。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉 は、ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1999年版)メ ッセージ第24編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されて います。