クリスチャンとはキリストの言葉にある命を受け入れる人である(3) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ヨハネ6:63 「命を与えるのはその霊である。肉は何の役にも立たない。わたし があなたがたに語った言葉は霊であり、命である」。(67節)そこでイエスは十二人 に、「あなたがたも去りたいのか?」と言われた。(68節)シモン・ペテロが彼に 答えた、「主よ、わたしたちはだれに行きましょう? あなたは永遠の命の言葉 を持っておられます」。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全3編のうちの第3編) 弟子と呼ばれていたこれらの人たちが去って行った原因は、苦難が彼らに臨んだ からでもなければ、試練が彼らに臨んだからでもありません。彼らが退いた原因 はただ一つ、すなわち「これはひどい言だ。だれがこれを聞いておられよう?」 です(60節)。彼らは真理につまずいたのです! 兄弟姉妹よ、外側のものは役に 立ちません。外側でクリスチャンになる者は、真理の前では立つことができませ ん。試練が彼に臨むまでもありません。ある人たちは、自分はクリスチャンであ ると公言しています。しかし、主の言葉を受け入れようとしません。彼らはキリ スト教の真理を理解せず、それを疑い、誤解し、それどころか嘲笑したり、反対 したりさえします。彼らはキリスト教の名称だけを求めているのであって、キリ スト教の真理を求めているのではありません。彼らがクリスチャンであるのは、 彼ら自身の「神学」にしたがっているのであって、主の御言葉にしたがってでは ありません。 人は主の言葉を受け入れる時、主の命を受け入れます。外側でクリスチャンにな っている者に一つの特徴があります。彼らは主の言葉を理解することができませ んし、主の言葉を信じることができませんし、主の言葉を受け入れることができま せんし、主の言葉を尊ぶことができません。すべての神の子供たちは、神の言葉、 すなわち聖書に対して、一つの基本的な感覚を持っています。すなわち、聖書を 信じ、聖書を尊び、聖書を重んじるのです。聖書に対するこのような感覚は、ク リスチャンの基本的なものです。クリスチャンとして持つべき根本的な態度です。 もしクリスチャンであると言いながら、疑って聖書を信じず、批判してそれを尊 ばず、踏みにじってそれを大切にしないのであれば、彼は決して真のクリスチャ ンであるはずがありません。主の言葉を聞いて去って行った弟子たちは、表面上 は弟子と呼ばれていましたが、実際は未信者でした。聖書はそこではっきりと記 しています、「イエスは初めから、信じない者はだれであるか、ご自分を裏切ろ うとしている者はだれであるかを、知っておられた」(64節)。 いわゆる弟子と呼ばれる多くの人たちが退いた時、主イエスは十二人の弟子たち に言われました、「あなたがたも去りたいのか?」。すると、シモン・ペテロは 答えました、「主よ、わたしたちはだれに行きましょう? あなたは永遠の命の 言葉を持っておられます。……わたしたちは信じており」(67-69節)。ペテロは 啓示を受けた人でした。天の父はかつて彼に、このナザレ人イエスが生ける神の 御子であることを啓示されました。こういうわけで、多くの者が退いた時でも、 彼はやはり主に従いました。主の言葉は一つの試金石のようなものです。だれが 彼を真に信じ、だれが彼を信じないか、だれが内側からであり、だれが表面的であ るかを、区別するのです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第34編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。