キリストの一つからだを見る ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 1コリント12:25 それは体に分裂がなく、各肢体が互いに同じ顧みを持つため です。 エペソ4:3 平和の結合するきずなの中で、その霊の一を保つことを熱心に努め なさい。(4節)一つからだと一つ霊、それはあなたがたも、あなたがたの召しの 一つ望みの中で召されたようにです。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― キリストのからだを見た者には、キリストのからだの感覚があります。分裂的な 事を行なったり、神の子供たちを互いに分けたりすると、彼らの内側は穏やかで なくなります。彼らは、神に属する者をみな愛するので、神の子供たちを互いに 分けることができません。からだの中で愛は自然ですが、分裂は不自然です。人 には二本の手があります。一本の手がもう一本の手にどれほど多くの逆らう事を 言ったとしても、決して二本の手は分かれることができません。すべての分派的 な霊、すべての分裂的な態度、神の子供たちの間に分裂を起こす外面的な動きと 内面的な考えはすべて、キリストのからだに関するビジョンが欠けている証拠で す。 多くの人々はからだの原則によって生きていません。反対に、彼らは個人主義の 原則にしたがって生きています。この個人主義はどこにでも見いだされます。祈 りの集会の中で、ある人の祈りは自分の祈りだけです。彼らは他の人と一緒に祈 ることができません。彼らは自分の祈りを人に聞かせることができるだけで、他 の人の祈りを聞くことができません。彼らは他の人たちの祈りに呼応せず、それ にアーメンを言うことができません。彼らが集会に来る時、自分の語る部分を考 えているだけです。ですから、他の人とする事が何もありません。どのような祈 りであれ、どのような負担であれ、どのような感覚であれ、他の人とは全く無関 係であるかのようです。これが個人主義の原則です。それはからだの原則ではあ りません。このような人はからだを見ていません。また彼らは主の御前で他の人 と共に働くことができません。時には三人、五人、十人、二十人の兄弟たちと一 緒に語り合います。その時、あなたは自分の負担しか語れない人がいるのを感じ るでしょう。彼らは他の人たちの負担について語ったり聞いたりする心がありま せん。彼らと共に一時間か二時間座って語るなら、彼らの心にあるのは自分の事 だけです。話題が他の人に移ると、彼らの思いは定まらなくなります。後になっ て語ってみると、彼らは他の人が言ったことを一つも聞いていなかったことがわ かります。これらの小さな事だけでも、キリストのからだを見ているかどうかが 明らかになります。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第36編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。