からだの中の一肢体となる(2) ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― ローマ12:4 一つの体の中には多くの肢体があり、そしてすべての肢体が同じ機 能を持っていないように、(5節)わたしたちも数は多いのですが、キリストの 中で一つからだであり、そして各自は互いに肢体なのです。 1コリント12:17 もしからだ全体が目であるとしたら、どこで聞くのでしょう か? もし全体が聞くとしたら、どこでかぐのでしょうか? (18節)しかし今、 神は各肢体を、それぞれ体の中に、彼の欲するままに置かれました。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 兄弟姉妹よ、からだの中では受動的な肢体はあり得ません。からだの肢体である 限り、わたしたちは受動的であってはならず、集会の傍観者であってはなりませ ん。集会に来る時、わたしたちはキリストのからだの肢体であることを認識して、 祈るべきです。彼らは声を出して祈るかもしれませんし、静かに祈るかもしれま せん。しかし、わたしたちは少なくとも祈って、からだに命を供給しなければな りません。あるクリスチャンたちは命を供給する人たちです。彼らが集会に来る と、彼らが口を開かなくても集会は供給を受けます。彼らの存在そのものが他の 人たちの供給であるのです。彼らが行く所どこでも、死は飲み尽くされます。兄 弟姉妹よ、キリストのからだを見るなら、わたしたちは必ず自分自身が肢体であ ることを見るでしょう。 わたしたちはキリストのからだの肢体です。わたしたちは、各自がこのからだの 肢体としてからだの益を求めるべきです。わたしたちはからだに命と力を供給す る方法を追い求めるべきです。たとえ集会の中で口を開かなくても、わたしたち は静かに祈るべきです。たとえ語らなくても、わたしたちは常に神を仰ぎ望むべ きです。これがからだの意識です。からだを見れば、自分が要らないとか、自分 は大切でないとか言わないでしょう。からだを見れば、わたしたちは自分がから だの肢体であり、本分を尽くすべきであると言うでしょう。わたしたちは語るべ きであり、祈るべきです。集会にやって来ると、わたしたちは神が言われること を行ないます。わたしたちは傍観者であることはできません。兄弟姉妹よ、もし わたしたちがからだを見るなら、他の方法では行動しません。わたしたちがこの ように機能する時、集会の命はすべての死を飲み尽くします。多くの集会には十 分な力がありません。なぜなら、死の力があまりにも強いからです。それらの集 会にはあまりにも多くの傍観者がいます。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第37巻「一般的なメッセージ(一)」(1998年版)メッセー ジ第36編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。