神はアダムとエバのために血が流されるようにされた ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 創世記3:21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着 せてくださった。 ヨハネ1:29 その翌日、ヨハネはイエスが自分の所に来られるのを見て言った、 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊!」。 ヘブル9:22 ……血を流すことがなければ、赦しはありません。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― 皮が小羊から取られる前に、その小羊は疑いもなくいけにえにされました。それ らは殺され、血が流されました。神はおそらくその小羊をアダムとエバの面前で 殺され、彼らはそのいけにえを目撃したと、わたしは思います。それは彼らに深 い印象を与えたに違いありません。おそらくアダムはエバに言ったことでしょう、 「エバよ、あれがわたしたちの運命であったことがわかりませんか? 神の禁止 によれば、わたしたちが殺されるべきでした。しかしエバよ、神はわたしたちを 殺されませんでした。神はこれらの小羊をわたしたちの代わりに殺しておられま す。何とわたしたちはこれらの小羊に感謝し、ありがたく思うべきでしょう。彼 らはわたしたちの身代わりです」。 ある日、主イエスが来られると、バプテスマのヨハネが彼のことを「見よ、神の 小羊」と言いました。ヨハネによる福音書第1章29節は、創世記第3章21節の発展 です。血を流すことがなければ、どうして義なる神が罪深い人を義とすることが できるでしょうか? 血を流すことがなければ、神が堕落した人の上におおいを 着せることは、合法的でもなく、適法でもなく、正しくもなく、公正でもなかっ たでしょう。しかしながら、神は罪深い人を皮の衣で覆う前に、いけにえにおい て彼を裁き、殺されたのです。神は決してわたしたちを殺されません。なぜなら、 彼はすでにキリストの中でわたしたちを殺してしまわれたからです。十字架の上 で、キリストは義なる神によって殺されました。これは、神が義とするのは贖い に基づいていることを意味します。皮の衣を着せることは、いけにえの血を流す ことに基づいていました。なぜなら、いけにえの小羊は、実は罪深い人の身代わ りであったからです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「旧約ライフスタディ・創世記(二)」(1998年版)メッセー ジ第21編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。