人に対してあわれみで満ちている ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― マタイ7:1 あなたがたは裁いてはならない。あなたがたが裁かれないためであ る。(2節)なぜなら、あなたがたが裁くその裁きで自分も裁かれ、またあなたが たが量るその量りで自分も量られるからである。 ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― あなたが人にあわれみを示すなら、あわれみを受けるでしょう。しかし、もしあ われみなしに人を量るなら、あなたもあわれみなしに量られるでしょう。あなた が量るその量りで、あなたも量られるでしょう。あわれみは、何の量ることもし ません。これは、あわれみは何の要求も負わせないことを意味します。量ること を要求するものは、あわれみではありません。あわれみは絶対に盲目です。なぜ あなたは、わたしがそんなにもあわれな時にそんなにも良く取り扱ってくださる のですか? それは、あなたがわたしに対してあわれみ深いからです。 ある時、わたしは主のあわれみによって人に対してあわれみ深くありました。後 になって、その事情についてとてもはっきりした目を持っていたわたしの子供た ちの何人かが言いました、「お父さん、この人がどんなにあわれであるか知らな いのですか? なぜそんなに親切にしたのですか?」。わたしが親切であったの は、盲目であったからです。しかしながら、わたしの子供たちは視力が非常には っきりしていました。しかし、視力が非常にはっきりしている人たちは、あわれ み深くあることができません。わたしたち王国の民は、人の取り扱いにおいては 盲目でなければなりません。そうであれば、わたしたちは彼らに対してあわれみ 深くなり、常に彼らを顧みるでしょう。わたしの子供たちが、なぜ親切に値しな い人たちに親切であったかと尋ねる時はいつも、わたしは次のように答えました、 「あなたがたはわたしのしていることがわかりません。あなたがたの目はとても 大きくはっきりしています。なぜわたしが彼をそのように取り扱ったのでしょう か? それは、わたしが彼を思いやったからです」。これが、王国の民が人を取 り扱う原則です。わたしたちは人を取り扱うために、彼らを思いやり、彼らに同 情し、あわれみ深くなければなりません。王国の民は人を取り扱う時、彼らを顧 みなければなりません。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウイットネス・リー著「新約ライフスタディ・マタイによる福音書(一)」(1997 年版)メッセージ第23編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版 されています。