福音を恥としない ――――――――――――――聖書の節(回復訳)―――――――――――― 2テモテ1:12 ……わたしは恥としません。なぜなら、わたしは自分の信じてき た方を知っており、その方はわたしが託したものをかの日に至るまで守ることが できると、確信しているからです。 イザヤ53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知って いた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(4節)ま ことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思っ た。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。(5節)しかし、彼は、私 たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちのとがのために砕かれた。彼への 懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 (新改訳) ―――――――――――――――務めの言葉――――――――――――――― (全2編のうちの第1編) ある人は恥ずかしがります。彼らはクリスチャンであることは恥ずかしいと感じ ます。未信者の前では確かにこの味わいがあります。今日もしあなたが何かの技 術を研究していると言えば、人はあなたを前途のある人だと言うでしょう。もし あなたが何かの哲学を研究していると言うなら、人はあなたを思想のある人だと 言うでしょう。他の事をやっていると言う時は恥ずかしいとは全く感じませんが、 自分がクリスチャンであると言うとき、多くの人は、あなたの学問は駄目である とか、思想もなっていないと言うでしょう。彼らはあなたを重んじないでしょう。 別の事を言う時は、いかなる時でも恥ずかしいと感じませんが、クリスチャンで あると告白すると、内側に恥ずかしさを感じます。確かに、人がクリスチャンに なることを、世人は恥ずべきことであると感じます。しかし、わたしたちはこの 感覚を打ち破る必要があります。 どのようにすればこのような恥ずかしいという感覚を打ち破ることができるので しょうか? 二つの面から見てみましょう。一面において、主イエスは十字架に かけられた時、わたしたちの罪を担ってくださいましたし、恥も担ってください ました。わたしたちの主がわたしたちの罪を担われた時、彼は最大の辱めを受け られました。今日もしわたしたちが人の辱めを受けるとしたら、それは神の御前 で当然のことです。今日わたしたちが主のために人の前で受ける辱めは、主がわ たしたちのために十字架上で受けられた辱めにはほど遠く、及ばないものです。 ですから、辱めがあることは少しも不思議ではありません。わたしたちは、自分 が主のものであることを知るべきです。 (明日に続く) ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、 ウオッチマン・ニー全集第48巻「初信者を成就するメッセージ(一)」(1999年版) メッセージ第4編から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されて います。